※沖縄のブルーシールアイス 退院後によく食べてました。
先日、右前腕の骨折治療が完了しました。
といいますか、これ以上リハビリしても改善の余地はなし、という医師の判断で治療が終わりました。
前腕を骨折すると、必ずしも元通りに治ることはないケースが多いようです。
しかし、私は、体感で85%の回復になりました。懸命の治療と看護、リハビリのおかげで、社会に還元できる右手になるまでに復活させてくれました。
関係各所の先生方に感謝の言葉しかありません。
そして、この怪我が、私が組織の一員ではなく、個人としてお客様の経理を支える仕事を目指すきっかけとなりました。
今回は、交通事故からの約1年2ヶ月の戦いの内訳を記録しておこうと思います。
感謝の辞
今回は、手術からリハビリ治療が終わるまで、一人の医師が初めからずっと付き添ってくれました。今思うと、ともに戦ってくれた戦友のような存在です。
知り合いの医療従事者に聞いても、そこまで面倒を見てくれる医師はめずらしく、腕も確実で、実に誠実性の高い先生でした。
しかし、怪我から立ち直るのに必死だった当時の私は、その医師に会うたびに、複雑な感情がわいていました。
理由は、医師も悩みながら、私の怪我に向き合っていたからです。
しかし、それは医師として当然な態度です。教科書どおりに治っていく保障はどこにもなく、絶えず疑問と疑いの目で観察することで、次の手を考えるわけですから。
これは、どの職業でも共通する資質だと思うのです。
今となっては、最善の治療をしていただいたことに感謝しています。
ただ「スパルタン」(以後S先生)とあだ名をつけていたことは内緒です。
あと、たくさんの方々、当時の職場の上司や同僚、私の復帰を待っていただいたお当時の客様に、ご迷惑と心配をおかけしました。
きっかけから最初の入院まで
確か、2020年5月の終わりが見えかけたときでした。
1回目の緊急事態宣言が終わった直後で、日常を取り戻し始めた朝の国道でした。社用車で通勤していたところでした。
結果的に、国道の歩道にあった道路標識の柱に激突し、車は大破。
意識があったものの、そのときはシートベルトで胸を圧迫されたことが痛くて、車からでるのも、通りかかった人に助けながら、歩くのもやっと。
歩道で横になってしばらくしたら、救急隊が到着して地域で大きい救命救急の大学病院に担ぎ込まれました。
病院についてからの、流れるような処置には、ある種心地よいマッサージのような感覚でした。それにより、どうにもならない状態での諦めから、少しずつ自分を取り戻しました。
とにかく、早い。あれよあれよと、CT検査まで行きます。内臓からの出血がないか、造影剤を投与して検査します。
これには、アレルギー反応がでる人がいることから、喘息持ちかどうか、専攻医の先生から確認されました。昔、咳喘息だったことがあったと申告したら、「では、投与中発作がでたら、すぐに中止します。」と言われ、検査中ずっと、数人の若い専攻医の先生に私は顔を凝視されてました。いったいどこのホストクラブかと。
重症負いながら、不謹慎でした。すみません。
ここで、特に出血は認められず、軽度の肺挫傷が確認され、処置室にもどってから創外固定術の緊急手術が決まったことを伝えられ、さて準備というときに、ついたて奥にいたベテラン医師らしき声が聞こえます。
「おい、頸折れているぞ。」
処置室がこおりました。そのあとすぐ、「大丈夫大丈夫、動かせる」の声で、みなの作業が再開されます。
なので、私はここで頸が大丈夫なんだと思ってしまったのです。
結論、シートベルトとエアバックによる肺挫傷と頚椎骨折、右手橈骨遠位骨折、尺骨脱臼が診断されました。
手首の細かい小石のような骨も、一つ砕けていました。
一日目
右腕の創外固定術 フィラデルフィアカラー、酸素吸入。HCUに入院。
とにかく、フィラデルフィアカラーしたまま酸素マスクするのは、拷問でした。
あのマスク、ものすごく暑いんです。医療ドラマで、患者が酸素マスクしながらセリフを言うシーンがよくありますが、あれ、無理です。
そして、匂いが独特で、外したいの一心でした。先の処置室で「頸は動かせる」という言葉を信じ、早くカラー外したいと主張しますが、誰も外してくれない状況に不安になります。
あとで、看護責任者の方から、頚椎骨折で6週間から8週間カラーをつけることを教えていただきました。
そこで、私はことの重大さに覚悟をしたのです。
へその下一帯にシートベルトの痣が強かったのですが、幸いに骨盤骨折は免れました。脂肪を蓄えてよかったと思えたのは、このときが初めてで、笑えました。いや、笑うと呼吸が上がって、下腹部の激痛で無理でしたが。
全身麻酔による創外固定術で、術後24時間ベットから動くことができず、排泄も腹筋を痛めていたので、とても難儀だったのが辛かったです。
二日目
S先生がふらりと専攻医の先生といっしょに回診にいらして、この固定された腕を、45度ほどふにゅぉーんと回外させ、再固定しました。これには焦った。折れている自分の腕が創外固定の棒とともに、ヌルリと動くのは異様です。
思わず、「ヒェ~」とかすれた声をあげますが、「後々、この方がいい。研究(大学病院なので、研究対象にもなることを承諾すみ)のこともあるし・・・」とのことでした。ただでさえ、ダメージ100だったので、質問する気力もなし。なすがママでした。
今思えば、この処置は大正解でした。
しかしそのあと、ダメ出しが。
再度シーネで硬め直したあと、S先生がいきなり、右手の指をグワシグワシと動かし始めます。「動かさないでいると、どんどん手が固まるから、痛くない範囲で動かして」と、おっしゃいますが、痛くて、またヒェ~と声を上げてもお構いなし。
今思えば、これのおかげで、回復へのスピードが早まりました。
フィラデルフィアカラーをしている患者を洗浄するのも、看護師二人掛かり行う作業です。とにかく、頸を動かさないようにするため、重いバスケットボールを揺らさずに持ち続けるように頭蓋骨を持ちながら、もうひとりの看護師がカラーを外して頸を吹く作業は、本当に大変でした。
あのときの、看護実習生のお姉さん、マスクしながらの重労働、ありがとう。
三日目〜四日目
酸素吸入もはずれ、一般病棟に移りました。院内でのリハビリテーションも始まりました。スパルタな主治医に相反して、リハビリの担当作業療法士さんは、とても穏やかな優しい方でした。
今思えば、厳しさと優しさがあってバランスがよかったと思います。
会計事務所の仕事を引き継ぎする必要がありました。
家から、当時はまだ稼働していたあの古いMacBook Airと、キーボード、パソコン台、充電器等々を持ってきてもらい、ベットサイドにスマホのデザリングによるサテライトを自分で構築します。
あの古いMacBook Airについて↓
日本語配列のMacBookAirと英語配列のErogodoxEZ
ちょうど、リモートで職場のサーバーに入れるようになっており、通勤途中ということで、多少の仕事道具も揃えていました。ここから、電話とPCで、お客様のことを引き継ぎしていきます。フィラデルフィアカラーに創外固定して、左手だけでの作業は、傍から見て異様だったようです。
回診にくる専攻医の先生方に、この様子を見て、こんな状態で何やってんですか、と呆れ顔されます。
また、職場と病室がつながっていたこともよかったようです。
外界とつながることで、落ち込んでいる場合ではないと発奮できました。まだ、会話しても息が弱く、ヘロヘロでしたが、なぜか気力は充実していました。
ついでに、家から山Pのポスターをもってきてもらい、ベットサイドの棚に貼り付けました。
これは、本当に効果がありました。テンションあがります。
回診にくる専攻医の先生に「山Pに見つめられて元気でますか」といじられますが、「いつになったら藍沢先生(TVドラマのドクター)に見てもらえるの?」と言いかえす余裕も。
逆に「すみません、ぼく、山Pじゃなくて」と謝れてしまします。
こんな患者は、いつまでも急性期病院においておく必要はありません。
よって、創外固定を外し、プレートをいれる再手術の時期が早急にきまります。
十日目
プレートを入れる手術です。広範囲で骨折しているため、通常のものより長くなります。尺骨の脱臼は、ピンで固定します。
創外固定のとき、痛みも強かったので、術後、一番強い痛み止めを処方してもらいました。
それが身体に合わず、術後24時間後に車いすでCTを取りに行ったときに、体調を崩し、ストレッチャーに乗せられて病室に戻る一幕も。元気そうに見えますが、やはりダメージありました。
このときの、看護主任の対応は鮮やかでした。私の顔色をみて、即ピッチ電話でベテラン看護師を指名して呼び出します。呼ばれた看護師も血圧計と酸素濃度計を持って駆けつけます。私が何も主張しなくても、ささーっとストレッチャーを手配して、放射線技師の手を借りて、私を載せ替えます。看護師の凄さを垣間見た瞬間でした。
カラカラと運びながら、血圧計と酸素濃度計をつけて、看護主任は私に「お酒強そうに見えて、実は弱いでしょ」と言いました。私は、はい、と答えるのに精一杯でした。
この姿で、病院敷地内を歩き回っていると、他の患者さんも影響受けて外に散歩するようになりました。プレートを入れて一週間ほど過ぎて、最初の退院をしました。
外来通院
退院したその日に、S先生からご自身が外来している民間病院の外来にくるように言われました。
ここで、抜糸して、外来リハビリテーションが始まります。
大学病院に入院していた頃のリハビリは、ベットに横になり手技していただいてましたが、ここは、普通の病院の外来リハビリテーションということで、椅子と机で行いました。入院中は歩き回っていたといえ、退院してすぐ椅子に座っていたら、めまいを起こし、気分が悪くなってしまいました。
ここの病院のリハビリテーションを担当してくださったIさんには、ずいぶんと愚痴を聞いてもらったり、話をよく聞いてくださいました。リハビリ中、よく喋り倒してました。
ここで、半年経つまで、お世話になりました。
S先生は、2週間に一回の診察のたびに、まるで夏休み明けの小学生に宿題をやってきたか厳しくチェックする学校の先生のようでした。それはそれは、甘やかしてくれなかったです。
なかなか、前腕の回内がうまく改善しませんでした。尺骨のピンが痛くて、どうしても頑張れなかったのです。S先生の焦りも出てきます。それを見て、私も焦ります。
頚椎骨折は、カラーをして自然治癒を目指していたので、外れるのに8週間かかりました。最初6週間から8週間を目安と言われていたので、6週間で外して、仕事に復帰して、お客様の元に戻りたかったのですが、予後がよくなく、8週間に伸びてしまいます。その宣告に、私は「え〜」と悲鳴とため息を混ぜた声を上げ、落胆します。しかし、それに動じないS先生とのやりとりに同席する外来看護師も吹き出すのを我慢するほど滑稽だったようです。
その診察に立ち会った家族は、未だにそれを笑い話として語ってきます。
この日病院に行く前に、家で散々「カラー外れるから、仕事に戻れるから」宣言し、仁王立ちして威張っていたのに、ショボーンと家に戻るの高低差があまりにも喜劇だったようで、弱みを握られた瞬間でした。
結局は、会計事務所をこのあとすぐにやめました。事務所とこちらの要望が合わなかったためです。
前々から、会計事務所でのやり方に限界を感じていました。
もっと、お客さんに踏み込んだ経理を提案できたら、もっと業績が伸びるのに。
未知の世界に入れるのに、とずっと思っていたからです。
今回の事故がきっかけでしたが、いずれは自分一人でお客様のために仕事をするつもりでいました。
そういう意味で、このS先生が厳しく接してくれたおかげで、「はぁ?なにくそ」と前に進めることができ、発奮できたと思っています。
抜釘手術
年明けて3月に、最初の3ヶ月に一回の診察がありました。
リハビリテーション中の診察で、前腕の回内が改善しないことで、抜釘手術は考えていないかと話も出ていました。ついでにプレートが浮いてきて指の腱がふれていることから、いずれ断裂する可能性もある、ということで、早々と抜釘手術を受ける決断をしました。
そして、術前診療にて、短期間のリハビリテーションが必要とも言われました。
そして、最初に入院した大学病院に、再入院しました。
今度は勝手知ったる病室で、馴染みのスタッフに会えて、再開を喜びます。
抜釘手術の結果、親指の腱がプレートに癒着していたようです。
よって、再癒着を防ぐため、短期間のリハビリテーションが必要だと確定しました。
ただ、今度行く病院は、S先生が異動した先の新しいところで、以前の病院に戻らないことから、私の状態を理解してくれる担当者がいないことに不安がよぎりました。また、1から関係を築くのは大変です。
入院時に、S先生に相談し、一営業日入院期間を伸ばしていただき、大学病院でのリハビリテーションをしていただくことを受け入れてくれました。
ここでリハビリテーション受ければ、作業療法士の方からの説明をきくことができ、新しい先で自分で説明できるようにしておきたい、が主旨でした。あと、カルテに書かれたオペの様子も聞くことができて、よかったと思います。急遽無理して調整していただいた先生に感謝です。
早速、新しい病院に行ったら、どうやら私は病院ショッピングする患者と思ったらしく、リハビリテーションの担当者に、前の病院での情報がないとやりにくいと私に文句言ってきました。想定内でしたが、こちらとしては、成すすべもありません。
結果的には、想定外に回復することができました。
短時間であれば、普通のキーボードで入力することができるようになったのです。
新しいリハビリテーションの担当者がゴットハンドだったこと。プレートとピンが外れて、私自身開放されたこと、あと、最後まで責任持ってくれたS先生のおかげだったということ。
不安でいっぱいでしたが、結果オーライでよかったです。
終わりに
S先生ですが、びっくりすることが多かったです。
しかし、後々の影響がほぼ苦労しなかったことから、相当勉強された先生だとわかりました。
そして、このような先生が、もっと正当に評価されるような業界であることを切に願っています。
リハビリでどう頑張っていったのか。ガジェットに工夫したり、指の運動にピアノを取り入れたりした記録は、のちのち少しずつご紹介していければと思います。
私の右腕にある傷は、たくさんの方々に迷惑をかけた証拠であり、助けてくれた証拠でもあります。
友人に元も含め医療従事者の方が多いのですが、この傷を見て「すごくきれいに縫ってくれているよ」と、皆言ってくれます。自慢の傷になりました。
これを区切りに、次なるステージで恩返ししていこうと思います。