※日本返還直後の沖縄にて 米軍ベースでのフィスティバルの一コマ 米軍は怖いイメージがあるが、けっしてそうではないと知ることができた貴重な体験
私の幼少期は、父親の転勤に伴い、一年単位で引っ越しをしていました。
ちょうど、幼稚園の年少から年長、小学校1年生までです。
3年保育のこの時期は、子どもにとって、家庭から集団生活の経験を積む時期で、社会の一員になる最初のスタートです。とても大切な時期です。
そんな時期に、私は日本各地を転々と流浪していました。
そのためか、「自閉症じゃないか」と疑われるほど、しゃべることができなかったようです。今では、誰も信じてくれませんが。
自分の記憶でも、ひたすら耐えてたような、様子を伺っていたような感じです。
あやふやですが。
大人になって、独立を選択したのも、子どもの頃の体験が大きく影響を受けていると思っています。
つまり、「絶対」というものは存在しない。
ということです。
場所や立場が違えば、全くもって別世界が繰り広げられているのです。
まるで、仮面ライダー龍騎の鏡の世界のように。
では、時系列にそって、振り返ってみようと思います。
仏教系お寺の幼稚園
東京の母の実家で生活していたので、親族全員が通っていたお寺の幼稚園に通っていました。
その幼稚園は、お受験にとても強く、私以外の親族は、そのクラスに通って、有名私立小学校に入学していました。
しかし、当の私は入園試験に落第します。
姉妹である姉が、あまりにも優秀で、
「その妹なら、きっと優秀なのでしょう」と、お情けで入れてもらったようです。あとから母から聞きました。
とにかく、厳しい。
子どもに対して、厳しかったです。母親が頑張って指導受けながら作ったお弁当をチンタラ食べてたら、講堂の舞台に残らされ、午後の保育を眺めながら最後まで食べさせられていました。
そして、そんな弁当を作った母親たちに対しても、弁当が不適切だと全員の前で説教されます。
容量の良い、頭の回転の早い早熟な子どもにとって、刺激的でワクワクしたかもしれまんせんが、私のような落ちこぼれにとって、地獄のように落ち込むか、開き直ってバカに徹するか、どちらかになります。
私の場合、バカに徹していました。
なぜか、近所の年長さんが面倒見てくれました。もしかしたら、親同士が仲良かったので、頼まれていたのかもしれません。
そのおかげで、なんとか厳しい集団生活の中、生きてこれたと思っています。
そうこうしている間に、父親は日本返還直後の沖縄県那覇市に転勤することになったのです。
自由奔放カトリック教会の幼稚園
当時の沖縄は、混沌としていました。
インフラも十分ではなく、よく下水が詰まっていました。
上水も濁っており、家には、水の代わりにオレンジジュースが常備されていました。ミネラルウォーターは高価だったのです。
近所のカトリック教会付属の幼稚園に入りました。
初日に、いきなり、園児全員の手帳を渡されます。「これで、みんなの顔を覚えられるでしょ」といわんばかりに。
人数が少ないとはいえ、年少から年長の子どもがズラッと円形に置かれた椅子にすわっており、私はその中心に手帳の束を持たされて、ただ立ち尽くす状態。
先生の手抜きだったのか、定かではありませんが、毎日が統合保育でした。
年齢の低く、環境に慣れきれていない私は、渋谷のスクランブル交差点に立たされているような感覚だったのを覚えています。
東京の幼稚園の時のように、助けてくれる人は誰一人いませんでした。
今思うと、当時の沖縄は本土に対して様々な感情をもっていました。
東京から来た無表情の子どもに、誰も近寄ってきません。ただ、先生はひたすら明るかったのが救いでした。
プロテスタント系教育大学附属幼稚園
また、父親の転勤が決まります。
今度は兵庫県西宮市。
当時の日本はオイルショックで、みな生活が大変だったようです。私には、あまり記憶がないです。
ただ、近くの宝塚劇場に通い詰めたのは、今でも鮮明に覚えています。
将来は男役になりたい、と思ったほどです。
今度の幼稚園は、毎日、学生が教育実習に入っている、幼児教育に特化した女子大付属幼稚園でした。
今まで、散々な環境にいた私にとって、初めてしっかりと見てくれた幼稚園でした。
モンテッソーリメソッドを導入していて、毎朝登園すると、図工というか、各々自由に制作する時間になっていました。それが私に合っていたようで、集団に入る前に、自分に集中する時間を持つことで、外の世界と自分の世界の境界線がはっきりとわかるようになったのです。
そして、一定時間すぎると、先生がみんなを集めます。朝のお話と、制作時間で成果を上げた子ども一人ひとりに、どこが優れているか、説明しながらみんなの前で褒め称えます。毎日、違う子どもを褒めるので、今思うと、半端ない観察眼を持っていた先生でした。
ある日、クリスマスに向けて、みんなでそりを作っていました。空きダンボールを使って工夫していきます。
ほとんどの子供たちは、そりの足の先端をパキッと折って作っていたところ、私は、サランラップの芯を使って、カーブをつけて曲げる処理をしていました。
早速、先生はみんなを集めて、すかさずそれを褒めてくれました。
そして、私は、初めて自分で自分を認めることができたのです。それから、少しずつ集団に慣れていきました。
今まで、みんなを前にすると、寡黙になっていたのですが、卒園前の最後のお祈りに、先生は私を指名しました。
「かずこちゃん、さいごのお祈りをお願いします」
そこで、初めて私は、クラス全員の前で、一人で最初から最後までお祈りをすることができたのです。
もうそれは、友達も先生も、スタンディングオベーション状態。教室が祭り状態になったのを覚えています。
実は、それまで指しゃぶりの癖が治らず、親が困って、私の指に辛子やワサビを塗りたくるほどでした。
それでも改善しなかったのですが、この最後のお祈りをきっかけに、指しゃぶりの癖がピタッと治ったのです。
私が、人に教える仕事を目指したきっかけは、最後のお祈りを指名してくれた、この先生と幼稚園のおかげだったのです。
一人の子どもは、そうは簡単に変わるわけではありません。
ただ、環境によって、落ちこぼれのバカだったり、寡黙で暗い子だったり、自由制作で創意工夫ができる子だったりするのです。
全部、一人の子どもです。こうも評価が変わるのです。
また、子ども心に、大人の言うことは、絶対ではないと、感じていました。
仏教、カトリックキリスト教、プロテスタントキリスト教
どれをとっても、言っていることがバラバラです。
しかし、宗教宗派関係なく、お坊さんや神父さん、牧師さんの言っていることは、どれも似たようなものだと思って聞いていました。
伝統、規律を重んじる実家のあった東京、
返還直後で、戦後の憎しみを抱えていた沖縄、
宝塚歌劇があって、みんな明るい関西弁の世界、
こうして、振り返ってみると、
「価値観は絶対ではなく、自分から選ぶことができる」で、いいんだということです。
今までの思い込みや、刷り込みではなく、自分自身が生き生きすることが、信じるべき価値観なのです。
生きるために、苦労や我慢は必要かもしれません。
しかし、幼少期ですべて、コンプリート感を醸し出した私は、
自由になることが、自分の力を発揮できると、信じています。
今、所属している所で、違和感を感じている方は、ぜひ、自由になることも考えてみてください。
偏った価値観でくすぶっている本当の力を、ぜひ、のびのびと、求めている世界で発揮してみてください。
わたしは、そう決断して、独立の道を選びました。
その先にあるものに、期待を込めて。
そして、幼少期の自分に感謝しつつ。