無言の「ごめんなさい」は、ボディランゲージから許してあげようと思える場合があります。とくに、猫が謝る姿は、可愛さ倍増でなんでも許して上げたくなります。
しかし、普通は、理解してもらえないのが、人間社会です。
なぜなら、無言は都合が悪いときに行う行為で、相手を受け入れないときに行うコミュニケーションだからです。
無言の暴力
人から言われて、無言になったりすることがあると思います。
また、言いたいことがあるのに、あえて黙っていることがあります。
下手に発言をすると、波風が立って自分の立場を悪くするかもしれない。
そんな気持ちから、無言を貫くことが過去にあったかと思います。
しかし、立場が逆になったとき、無言でいられると、大きな違和感を得ます。
なぜなら、言葉以外のツール(表情、ボディランゲージ、黙るタイミング、黙る直前の言動など)で、しっかりと意義主張が伝わっているからです。
「嫌なんでしょう、けどなんで黙っている?」
このような時、気を使う人は、黙る人に声をかけます。
「なにか言いたいことがあるのでしょう?」
「本当は、それは嫌なのでしょう?」
そうして初めて、自分の意見を言う人達をたくさん見てきました。
だったら、始めから、ちゃんと伝えてほしいし、手間をかけさせないでほしい、と正直なところ、思うわけです。
アサーショントレーニングというコミュニケーショントレーニングがあります。
自分も相手も大切にした自己表現を身につけるためのものです。
私が思う、アサーションとは、自分と相手で(あくまで自分が最初)、落とし所を効率よく見つける作業と考えています。
さきほどの、だんまりを決め込んでしまう場合、無言を貫くことは、アサーション・トレーニングにおいて、「ノン・アサーティブ」と言います。
相手に対して適切に意見や気持ちを伝えないことは、自分の感情を無視していることに気づかないのですが、確実に、自分の感情を疲弊させているので、特に気をつけることが大切だと思います。
相手と自分を達観視する
なぜ、相手に対して無言になるのでしょうか。
これは、「波風を立てない」「声の大きいものに巻かれろ」という、古来日本にあった上下関係での作法に影響しているのではないでしょうか。
そのため、自分の意見をはっきり言う人に、距離を置く傾向はあって、黙って影で上手く対処できることが、いいやり方だと思いこむ人が多いように思うのです。
しかし、これでは、互いのやり取りの中から、いいものが生まれる訳がありません。
しかし、何でもかんでも、主張しまくるのも、一種の言葉の暴力となります。
なにごとも、中庸が大切で、自分と相手の落とし所を見つけることが、本来のコミュニケーションではないでしょうか。
この中庸を探す作業も、自分の気持ちと、相手の感情を知ることで、初めて成り立ちます。
自分だけではなく、相手のことを知ろうとする作業が、自分がやるべき行動を見つける大事な過程であって、双方のバランスをとるための視点なのです。
コミュニケーションの真意を確かめる
コミュニケーションを続けると、自分の精神衛生も良くなります。
しかし、相手から攻撃的な言動を受けたとき、思わず防御の意味で、無言になるかもしれません。自分の心を守る意味で、これは必要な防衛反応です。
しかし、そのままにせず、丁寧に相手にお願いをできるように、一歩前に進めるやり方を知っていれば、ただ、傷つけられた事実が残ることなく、新たな感情を上塗りすることができます。
そうすると、相手の本当の思いや事情を知るようになって、互いがWin-Winの関係に育てることができます。
相手が感情的になったとき、無言になったとき。
そして、自分が感情的になったとき、無言になったとき。
これは、アサーティブになれ、というサインです。
沸き起こる感情を切り離すことができるよう、日頃から達観視できるよう鍛錬していきたいものです。