沖縄のビール。おそらくオリオン生ビール。沖縄北谷町にて。By iPhone 10 R
沖縄本土復帰50周年です。
その当時、沖縄に住んでいた私は、この「本土復帰50周年」と聞くと、
「あれから、50年かぁ。あっという間だったな。」
と自己回顧録が脳内で回り始めます。
自分の生きる場所へ。ここまでの道のりは、長く人生の大半を費やしました。
夢を諦めて社会人へ
子供の頃、父親の転勤で、
東京23区に生まれ、4歳沖縄(本土復帰直後)、5歳兵庫県、そして東京都下へ6歳と、
1年ごとに引っ越ししました。
そして、東京都下で、結婚まで過ごしていました。
両親は、そんな私が不憫だったのか、習い事をたくさんさせてくれていたのです。
どうやら、沖縄に住んでいた時、ご近所のご婦人に「この子には、習い事をさせてあげなさい」
と、助言もらっていたようで、後からそんな話を聞かされていました。
地元の子供達と馴染めなかったことがきっかけでした。
お隣のお家にあったピアノが大好きでよく、弾かせてもらっていたようです。
私の好きなことに没頭する人生は、この沖縄から始まったのでした。
この5歳の時に始めたのが、「水泳」と「ピアノ」です。
ともに、先生やコーチに褒められていたこともあり、
そして、将来の夢が「ピアニスト」「水泳選手」でした。
しかし、中学に上がる前に、半年も学校を休む怪我をしたこと、
資金も湯水のように使えるわけではないことから、
この二つの夢を諦めて、学校教員または、心理カウンセラーを目指しました。
しかし、ここでは理由は言えませんが、ストッパーが働いて、断念し、働ける場所を探して社会人になったのです。
詳しくは、私のプロフィールを見ていただければ。
出産から復帰の地獄
同期の誰よりも早く結婚し、出産しました。
もちろん、当時は出産と共に退職する人がほとんどで、頑張って産休明けに復帰した人は、
周囲の冷たい目に晒されながら、働いてやめていく後ろ姿をたくさん見送ってきました。
ちょうど私が出産する頃は、育児休業制度が整い、一年間お休みをもらえたので、よかったのですが、復帰後が地獄だったのを今でも覚えています。
産後の肥立ちも良くなく、体力がないままワンオペ育児を続け(夫はモーレツサラリーマン)、
復帰しても、自分が肝機能障害で2週間も休むことに(お酒も飲めていないのに)。
そこを復帰しても、今度は子供の熱連発で、休みや遅刻も増え、とうとう上司から叱られる始末。
周囲の同僚は、全員独身で、子育てのアブノーマルな状況を理解できる訳もなく、
あの頃の受けた言葉は、いまだに忘れることはできていません。
事故をきっかけに
人は、相手が弱っている時、どう接するかで、その人の本質を見ることになります。
残念ながら、交通事故の時に属していた事務所を、やめることになりました。
やっと、私は、本来の自分でいられる。そう思って、リハビリも必死に頑張りました。
※50年前の那覇空港到着口の私。ジャンボジェットが飛来できない小さな空港でした。
このワンピースも、履いていたサンダルも、記憶にあります。
※同じく50年前の那覇空港にて。背後に飛行機の機体が。今と違っておおらなセキュリティです。
今見ると、表情がとても硬い。子供心に、気疲れしていた記憶があります。
この小さな少女の心に芽生えていたものは、未だ芽が出ていない感触です。
あの、沖縄の復帰から、私の人生が始まっていたとすれば、やはり、50年は長過ぎでした。
がむしゃらに頑張ってきた人生だけど、自分の道ではないという気持ちがずっと残っています。
しかし、気づけば、老後のことを考えなくてはならない年になっていました。
そして、体力や気力の衰えに戦う世代に突入していたのです。
どんなに自分の思いがあっても、思い通りに行かなかったのが、私の人生です。
であれば、この写真の少女が報われるよう、
年の功を駆使して、私なりの戦いをしていけばいいと、気づいたのです。
沖縄本土復帰50周年は、私にとって、意味のある節目の年です。
人生少数派で生きていた私にしかできないことを、これからは社会に還元する。
これが、これからの私の生業となりそうです。
=編集後記=
【昨日のできごと】
自宅で、オンライン業務をしながら、その合間はオフ。
じっくりと休みました。
かずこのお気に入り
日常の中で見つけたお気に入りを、NotionページにUPしています。
今、 町中華のかた焼きそばにハマっています。
50代からのひとり仕事を楽しむ
ひとり仕事の格言、ブログ・You Tube更新を配信。
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