※早朝、車で出勤途中の景色。霧の中で模索が続きました。
私は、フリーランスとして、仕事をしています。
それまでは、雇われて仕事をしていました。
定年まで勤め上げる道を突き進むこともできましたが、それを選択しませんでした。
どんなに理不尽なことがあっても、食いしばって乗り越えてきたのですが、ある時、それまでの道をすすむことを止めました。
独立を選んだ根底に、どんな思いがあったのか。独立を選択した人間がどんなことを考えているのか。
振り返ってみます。
学生時代
私には、年離れた姉がいます。私が小学校高学年のときに、彼女は結婚しました。
そして、社会人経験がないまま、今に至ります。
そんな彼女が、再三私に
「いいか。結婚しても絶対に仕事は辞めるなよ。絶対に続けて。」
子供だった私に、事あるごと、言い続けていました。
一緒に、母も同調します。「仕事は、指示されて動くものより、自分が指示出す仕事を選びなさい。」
もう、耳タコでしたね。そのためか、人に指導する仕事を選んだと思います。
当時の専業主婦は、社会で活躍する場として、PTAくらいしかありませんでした。
自由裁量といっても、経済的自立に程遠かったので、仕事を持ち続けている女性に対して、複雑な感情ももっていた人が多かった時代でした。
それでも、母と姉は、私に「働き続けろ」と叫びに近い訴えをしていたのは、強く思うところがあったのかもしれません。
その後、私は、その言葉を背負って生きることになったのです。
サラリーマン時代
働くのは、とても辛かった記憶しかありませんでした。
自分がやりたいことと、実際にできることに乖離があり、事務作業に苦手意識があることで、相まって「自分は仕事ができない人間だ」と、落ち込む日々が続いていました。
そのかわり、上司に恵まれていたので、理想のサラリーマン像を描けたのは唯一よかった点でした。
空回りして、成果が上がらない部下を、どのようにマネジメントをするのか。
仕事で譲らないものは、相手が行政であっても怯まない。
周囲に理解されない感性でも、まわりに迎合せず、その代わり誰にも負けない成果を出す。
私の理想とする上司たちに共通するものは、仕事に対するスピリット、つまり「軸」をしっかり持っていたのです。
そして、現在、私も一番大切にしていることも、この「軸」です。
やっと持てるようになったかも、と思えるようになったのは、年齢にして、45歳過ぎたあたりだったと思います。
もがきながら、この「軸」を見つけるまでは、絶対にあきらめない。今いる環境で得られるものは、泥を掻き分けても見つけ出してやる。
もう、根性論に近い、超体育系労働でした。勉強ができて、さっさと資格を取得していたら、こんな自分になっていなかったと思うのです。
最後通告
昨年、交通事項により、大怪我をし、仕事ができなくなりました。
今振り返ると、要所要所で、仕事ができなくなることがあったのを思い出します。
根性出して、疲れた身体に鞭打って仕事をしていたので、体調を崩すのは当然のことです。しかし、当時は、自分の限界を知ろうとしなかったので、肝心なときに体調を崩す自分に、情けなく思っていたのでした。
以下、ドクターストップがかけられたのを、上げてみます。
結婚後、暴飲暴食で肝機能障害になり、2週間の絶対安静を言い渡される。
3人の子供を出産後、復帰して半年ほどでそれぞれ3回、病院に搬送される。
3人の子育てを誰にも頼らず続けながらの税理士試験で、不眠症になる。
長時間労働、長時間通勤のはて、交通事故で搬送される。
こうしてみると、けっこう華々しいです。
今思うと、方向性を間違えて無理していたときに、毎度病院にお世話になっていたと思います。けど、懲りずに無理をし続けて、最後の交通事故で、やっと私は、堪忍したのです。
「いい?絶対に仕事を辞めるなよ。意地でも続けて」
と、言われた言葉に縛られて、絶対に負けちゃダメだ!!と無理し続けた結果が、利き腕の複雑骨折とその他の怪我でした。
そして、本来の私のやるべきことは、違っていたのだと気づいたのです。
先の、理想の上司像が持っていた「軸」。
大怪我をしたことで、すでに自分の中に「軸」が出来上がっていたのを知ったのです。そして、自分に残された時間を計算してみて、独立を決意したのです。
専業主婦たちの呪いの言葉に翻弄された社会人時代でしたが、その言葉のおかげで、今があると思うと、複雑な思いです。
こうして作り上げた「軸」によって、同じように悩んでいる方が、やらなくてもいい苦労から抜け出すお手伝いができるのは、このうえない喜びなのです。
人生、何があるかわかりませんね。
これによって、新たな出会いがあると思うと、ワクワクしています。